暗礁より

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絵のことを思うのはなし:続

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なんか絵の話をしてるのに絵がないブログだなあとおもったので天使の日をやりそこねたのらくがきです。

 

 

この間の記事に対して、かやさんとおしおちゃんがそれぞれ思うところの話をしてくれた。(かやさん!リンクだめだったら言ってください、おしおちゃんはフォロワー公開だったのでそっとしています…)

いや~~~!面白いですね。

前々からわたしが感覚的、感情的に生きているのに対しておしおちゃんは感情が濃いのに論理的に生きているなと言うか、思考が組み立てられている人だなあと思いながらみていたのですが絵にもあらわるんだなあ。

かやさんの感覚はわたしのなかではだいぶ近かったので、言語化するのがお上手だなあとしみじみしました。

 

勝手にできる絵、「着地点がない」絵というか………仕上がり目標がないというか。そうそう、そんな感じです、ってなる。白いキャンバスを開いて、ルーズリーフを一枚だして、何か描きたいな~あのキャラクター描こうかな~と思ってるうちに「よし!こうしてみよう」「今回はこう言う色にしよう」みたいな風に紆余曲折しているうちに「もうだいたいいいかな」と満足する、そう言う絵が私の中には在ります。

その紆余曲折がうまくいかずに試行錯誤になってくると「ちょっと落書きしようと思ったのに一生懸命描いたなあ」みたいな感覚。

 

 

個人的にじぶんのこととおふたりのはなしをきいた感触ですが、絵を描くことはお出かけと似ているのかもしれません。

「今日は映画館に行こう」で出かけるか、

「今日はどこ行こう、目についたところに行ってみようかな」で出かけるか。みたいな。

映画館に行く、でも「今日は13時からのあのタイトルの上映が見たいから、10時前に家をでて先にあそこの喫茶店でお腹を満たして、映画が終わったらいつもの本屋さんを覗いて、それから帰りに郵便局で用事も足してこよう」みたいにスケジュールをずらっと組んでいくひと、いくときもいるし、「今日は時間あるし映画館でも行ってみようかな~、時間にちょうどいいのあったらそれをみよう。まああとは気分かな~」みたいに無計画でふらっといくひと、いくときもあるとおもう。

 

「どうしても無計画で出かけたり、人と遊んだりできない。待ち合わせ時間と場所から、だいたい何時頃にどこにいくか2つ3つは考えて出かけたい」というひともいるし「時間があいそうだし突発的に、みたいに会うことが多いな。その時の気分とか周りにあるお店とかを適当にみんなで選ぶのが好きだ」というひともいると思う。

同じようにわたしのなかでは「何を描こうと思いついてすきなように描く」「時間もあるしとりあえずキャンバスをひらいた」「使用用途が決まっていてできるだけ組み立てて手順通りに描く」などがそれぞれあっておでかけの感覚と近い、と自分ではいま思った。

「無計画でなんとなく気軽に出かけたけど、乗り換えも営業時間も微妙で雲行きがよくない」と、「なんとなく描き始めて手癖で好きに描いていたけれど、良くしようと作業しているうちにどうすればいいかわからなくなってきたぞ」は私の中で似ている。おでかけのほうが正解を調べられてそのように行動できるというのはありますが。

わたしはいつも絵の正解がわからなくなります。

 

 

以前、絵を描く手順や出力する際のイメージ?について友人とはなしたのですが、「脳内にあるイメージをプリントアウトするように描く、最初から完成形がある程度わかっている」というはなしも「どのモチーフ、どの構図か、パズルのように組み立てながら考える」というはなしもあった。

わたしは考えるときはパズルのように組み立てるのですが、できあがった脳内完成予想図はいつもピントがあっていません。なんとかピントをあわせるように描く。下書きができてだいたいの色をおいたらあとはずっと絵をなんとかいいものになるように試行錯誤する作業で、どういうふうになにをやればいいものになるのかわからなくて、塗り進めてみたり、削ってみたり、そういう風にして絵を描いています。

そしていい絵になるように試行錯誤して、「もうこれ以上手の入れようがない!完成だ」と思うまでやるか、「う~んとりあえずこんなものでいいかな 見れば何が描いてあるのか分かるでしょう」と諦めるかで仕上がりのレベルが変わってくるので、落書きって多分私の中では妥協なんでしょうね。楽しいな、と思えている段階でやめちゃう。これ以上やると大変だし、時間もかかるし、とりあえずいいかなあと思ったらやめちゃう。

これがおしおちゃんとの絵に対する考えの一番違うところかなあと思う。

 

おしおちゃんは「表現方法」として絵をやっている、とおはなししてくれました。

わたしのなかでは表現なのももちろんですが、「伝達手段」としての側面もあるのかもしれない。これがわかればいいよね、これが言いたかったんだ!っていうのを伝えられればいいときがいっぱいあります。

 

このようにだらだらと考えをまとめていても冗長になりすぎているところから察していただけるかもしれませんが、わたしは思考を言語化してつたえることがとても苦手です。文章はまだ書いたり消したりできるからいいのですが、発話が特に苦手だ。

昔から頭の回転がすこし遅いようで、話している途中で「なんて言えばいいのかわからない」「いま言葉をかんがえてるからちょっとまって」「え~~~~っと………」みたいなローディングが発言までにすっっっっっっごいかかるんですよ。

喋ること自体も得意ではなく、どこか間延びしてしまうので(ほんとうはああ言いたかったのに!こういうことを、わたしは考えていたのに!)と感情や思想ばかりが言語化できずにもやもやぐるぐるする、そういう人生です。

 

そこで伝達手段として絵を選んだのだと思う。

わたしはもともと中学生の時に、ファンアートを描きたくて絵を始めました。「この作品の、こういうところがいいよね」「あのキャラクターの、あの部分がすごい好きだな」そういうことが上手に言語化できなかったぶん、そういう気持ちをできるだけ込めて描いて、人と共有するために絵を始めた………というには大げさだけど。喋って伝えるより、そちらのほうが長く続いたのはそういう、アウトプットの手段として向いていたというのはある気がする。

 

 

もちろん、「伝達手段」だけで終わらせたくなくて、なにかを表現したくてやっているので自分の絵に求めているもの、とくに気をかけて描いているものももあります。

かやさんが上記のリンクのはなしのあとにツイッターでわたしの絵について触れてくださってました。

「髪や布の質感」や「色の明暗の明確さ」、『そこにある確かさ(触って掴めそうな感覚)』とか、『自ら光を放っているようなハッキリした存在の主張』を感じるし描いてる段階で「そう見えてる」んだろうなあ、ですって。ものすごい嬉しい。

なにがものすごい嬉しいって、わたしの好きだと思う景色、絵画がそういったものだから。それが好きで、そういったようなところに惹かれながらものをみて、そういったように描こうとしているからです。どうしても、ひかりのある情景に惹かれます。それますが「情景」、いい言葉ですよね。

構成しているものでしか構成されていないのに感情が含まれていて、感情を揺さぶるようなもの。そういったものが描きたくて、そういった表現としてひかりをいれることが好きで選んでいると思います。というと大げさだし、流石に自分の絵に対して言い過ぎだと思うけど。

髪や布は単純にフェチズムでしょうね~。特に長い髪が散っているのや、布がたゆんでおりこまれているのをみるのが好きだし、そう言うのを描きたいですね。わたし西洋のバロック絵画と印象派の絵画がすきなんですよ。ああいうのが描けるようになったらもっと楽しいだろうなあと思いながら絵をやっています。わたしみたいな凡才は多少痛い思いをするくらい頑張らなきゃできないだろうけど、幸いこの努力に関してだけはやっている間中も楽しいと思えるようにできているので、楽しみながらたくさん苦しんでたくさん描きたいです。わたしはわたしの絵が、わたしの努力によってもっとよくなることについて盲目的なほどに信じているし、そういった確かな予感があるので。

 

 

もう何が言いたいのかわからないな!

終わります。読んでくれてありがとうございます。

制作する上で考えていること、何を考えて表現しているかということの話がとてもすきなのでこれを見て文章でも絵でももちろんほかの様々な何かでもやっている方が自分について語ってくれたら喜んで読みに行ってふんふんなるほどなあ!ってなるので、よかったらぜひ教えてください。

 

 

おしまい。